遺跡

黒石洞山城
黒石洞山城
指定名
遺跡
位置
鳳谷洞山26-1 コムレ峰

黒石洞駅の西にある海抜197mのコムレ峰の頂上にある山城である。山城の南側を除いた三方は豆磨川に囲まれ、傾斜は非常に険しい。鉄道(湖南線)と大田から連山に至る道路がよく見え、當時、通りを監視する目的で築かれたものと思われる。 百済時代の山城で、山頂を囲む形の山城である。城壁は崩れ落ちたが輪郭はしっかりと確認でき、周囲は約540mである。

坡平尹氏庶尹公派古宅
坡平尹氏庶尹公派古宅
指定名
遺跡
位置
槐谷洞466番地

佳水院を過ぎ黒石洞へ向う道路と、湖南線が出会う踏切前の右側のコリゴル村にある。この古宅は朝鮮仁祖の時代に漢城府の庶尹を務めた尹火翕の嫡孫、尹暹の時、今から約300数年前に建てられたものと言われる。 建物の配置は、コの字型の平屋の母屋の右端にL字型の行廊間をつけ、全体としては口の字型の平屋で構成された。

月平洞山城
月平洞山城
指定名
遺跡
位置
月平洞山12-2他

大田から儒城へ向かう途中の万年橋の南側、標高137.8mの山に位置している。山城内は南高北低の地形である。山城の西側は甲川の支流である省川が流れ、北には大田-公州をつなぐ道路が通っている。このような立地から見ると、月平洞山城を築いた目的は、昔戦場につながる通りを守るためのものと思われる。東北方向には九城里山城と迭峴城、西には城北里山城、南には沙井城がある。

道山書院
道山書院
指定名
遺跡
位置
炭坊洞220-1 覽仙山

道山書院は、晩悔・権得己(1570~1622)とその息子の炭翁・権諰(1604~1672)の二人の学問と徳行を称え祀り、学問を学ぶ場所とするために、1692年(肅宗18)に炭坊洞の道山のふもとに建てられた。

宋浚吉の墓
宋浚吉の墓
指定名
遺跡
位置
元亭洞山60-2

同春堂・宋浚吉の墓は最初は燕岐にあったが、後に公州などに移され、1700年(粛宗26)に現在の位置に移された。移動の順序は、1回目は1673年(玄宗14)に燕岐の竹岸、2回目は1676年(粛宗2)に懐徳の興農、3回目は1689年(粛宗15)に公州の鍮谷、4回目は1700年(粛宗26)に鎮岑の沙店洞、つまり現在の位置である。

喪祭輯略版木
喪祭輯略版木
指定名
遺跡
位置
黒石洞山97 九鳳斎舎内

九峰山の裏の麓にある九鳳斎舎の蔵板閣に保管されている。本来この版木は、慶尚北道安東郡吉安面龍渓里の龍山亭にあったもので、1950年に大田に移された。 全66版、132面から成り、内容は1863年(哲宗14)に金垈鎮が書いた喪祭輯略書と喪祭輯略版木、そして1741年(英祖17)に権舜経が書いた自序である。全4巻で、先の3巻は喪礼であり、最後の1巻は祭礼となっている。著者はこの本の著述動機を、沙渓・金長生の著書である『家礼輯覧』で喪礼部分に減らしたり付け加える部分があったためであると述べている。

柳赫然の墓
柳赫然の墓
指定名
遺跡
位置
坪村洞山18

ワチョンと言う村に入る道端に、柳赫然の神道碑とそれを守る碑閣が立っている。神道碑は1924年建てられたもので、碑文は李義国が作り、文字は9代目の孫である郡守の柳錫祐が書いた。碑閣を過ぎて村の後ろの低い丘陵に向うと、柳赫然とその子孫の墓地がある。

金汝温の墓
金汝温の墓
指定名
遺跡
位置
槐谷洞山12

金汝温(1550-1592)の字は敬甫、号は石隠で、本貫は金海である。金寧君の牧卿の後孫で、文禄慶長の役で義兵の先頭に立った殉国の志士である。

晩悔集・炭翁文集板木
晩悔集・炭翁文集板木
指定番號
第17号
位置
西区南仙路9番キル22(炭坊洞)

朝鮮時代の學者であり文章家であった晩悔・權得己(1570∼1622)と、その息子の炭翁・權諰(1604∼1672)の文集板木で、全部で610板。權得己は光海君2年(1610)に文科に主席合格して禮曹佐郞となったが、光海君が母后を西宮に幽閉して永昌大君を殺害するなど、政治が混亂すると、官職を捨て世の中を流れ歩いて暮らした。『晩悔集』は328板で、仁祖13年(1635)と肅宗38年(1712)に制作された。木板は梨の木と榛の木の両面に彫刻されたが、5板は片面だけに彫刻されている。權諰は仁祖14年(1636)に大君の先生に任命され、工曹佐郞や承旨、漢城府右尹などの官職に就いた。1660年に禮訟問題が起こると、尹善道を支持する上訴を申し立て、同じ書人の糾彈を受けて官職から退くことになった。『炭翁集』は282板で、英祖14年(1738)に制作されたものである。木板は榛の木で、13板以外の269板が両面に彫刻されている。

權諰の墓
權諰の墓
指定番號
第51号
位置
西区炭坊洞 239-1

權諰(1604年(宣祖37)∼1672年(顯宗13))、朝鮮中期の文臣・學者。本貫は安東。字は思誠、号は炭翁。父は佐郞・得己であり、母は全州李氏で、都正・瞻の娘である。幼いころから聰明で、志行が絶異で人は顔子に比喩した。9歳のときにすでに立派な詩を書き、15歳で理氣之說と四七之辨に精通していた。1636年(仁祖14)に大君師傅に任命されたのをはじめ、宣陵參奉・世子侍講院諮議など何度も官職に任命されたが辞退した。

1649年に孝宗が卽位した後、工曹佐郞に任命され初めて官職に就いたが、慶尙道使などを歴任し、その後、執義・進善などを経て1658年(孝宗9)に承旨に任命された。さらに贊善となり、1659年に顯宗が卽位した後には漢城府右尹に任命された。翌年、禮訟問題が起こると宋時烈と宋浚吉に對立して尹善道を支持する上訴を申し立て、同じ書人の糾彈を受けて罷免され、帰郷の途中、廣州の宣寧で暮らした。

1668年、宋浚吉が王に「詩は、愛君憂國が年を取るほどに敦篤となり捨てられない」と申し上げ、漢城府左尹に任命されたが就任せず、翌年公州(現在の大田)の旧家に帰った。宋時烈と同じ畿湖學派で禮論に精通していた。彼が死ぬと左參贊に追贈し、禮官に就いて祭祀を執り行った。大田の陶山書院に祀られた。著書には󰡔炭翁集󰡕7冊がある。

墓地の芝生もよく手入れされており、木も一切生えておらず、墓の外郭には庭園樹が植えられた。

墓の配置は2段配置である。上の段には北から莎城を囲い、その南に圓形の墳丘が続いている。墳丘の前の階節には廟庭碑と蓋石廟庭碑、そして望柱石と象石を置いた。下段の拜階節には望柱石1対と文人石1対があり、また、墓の入り口には最近建てられた神道碑がある。

壯安洞白磁窯跡
壯安洞白磁窯跡
指定番號
第40号
位置
西区壮安洞山56

2000年に忠南発展硏究院が発掘したこの窯は、村の住民が墓所を整備するために雜木を取り除く過程で現れたもので、調査によって1基の窯遺構と堆積が確認された。

確認された窯の規模は、全長16.6m、內壁幅は燒成室の下段部が1.8m、上段部が3.2mで、床の傾斜度は15°となっている。規模から分かるように、この窯には奥に行くほど広くなる逆梯子型の平面があり、側面出入口のある場所は側面が両側に少しくぼんでおり、蚕のようにも見える。壯安洞白磁窯跡の時期は17世紀末から18世紀で、大量生産に焦點を合わせた窯である。大田西南部一帶の需要層を念頭に置いた地方白磁の一タイプに該當する。

兜率山堡塁
兜率山堡塁
指定番號
第55号
位置
西区壮安洞山56

三國時代の小規模な石造りの堡塁(砦)で、百濟の山城と軍事施設の具體的な樣相が理解できる資料である。近隣の月平山城と連携して、三國時代の防衛體系を調べることのできる資料で、大田の山城硏究にとっても高い價値がある。 堡塁の周りの長さ 44m

馬峰峠堡壘
馬峰峠堡壘
指定番號
第56号
位置
葛馬洞山26-1

三國時代の小規模な石造りの堡塁で、百濟の山城と軍事施設の具體的な樣相が理解できる資料である。近隣の月平山城と連携して、三國時代の防衛體系を調べることのできる資料で、大田の山城硏究にとっても高い價値がある。また、無文土器片も確認されており、先史時代の高地性集落に関する研究にとっても高い活用價値がある。堡塁の周りの長さ 63m

槐谷洞のケヤキ
槐谷洞のケヤキ
指定番號
天然記念物第545号
位置
槐谷洞985

槐谷洞のケヤキは樹高が16mに及び、樹齡は700数年を経ている。樹形は非常に美しい。また、村では昔から守護木とされ、毎年七月の七夕には七夕祭を開くほど住民にとって精神的な支柱としての役目を果たしてきた。さらに、歴史・文化的な價値が認められ、今回天然記念物に指定された。